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type: article
title: 人生について
timestamp: 2007-12-02T00:00:00Z
profile: sorane-okf/0.1
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# 人生について

<p>最近ちょっと悩んでいる。自分のやりたいこととか、よく分からない。やってて楽しいことはある。やるべきこともある。いまの自分にできていないことも見えている。けれども、やってて楽しいことを追っかけて、やるべきことをやって、できていないことを埋めていくのが人生か？<br />
どこか人生というと何か目的的だが、一生は人間だけではなくアメーバにも狸にも同じようにあるのだ。きっと人間だって他の生き物と同じで、人生に理由なんかいらない。理由を求めるのは単なる自己満足だ。それはそれでコギト・エルゴ・スムか。

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僕はシガラミや妻子があるから先が見えなくても闇雲に走り続けざるを得ないと思い込んでいる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%C5%B0%EC%CD%BA">壇一雄</a>よろしく「親があっても子は育つ」と思っていたが逃げ損ねた。負け惜しみのようだが、僕は自由に生きていたら、もっと自堕落な人生を送っていただろう。どちらが幸せかは分からないけれども。<br />
正直なところ自由な社会が人間の望む何かなのかどうか私には分からない。抗しがたく掴みどころのない得体の知れなさがある。恐らく自由とは価値観を異にする人々が共存するための規範なり制度であって、そういった枠組みの内側で様々な不自由を形成していく関係性がある。否、先に不自由な現実があって、後から自由という、柵から飛び出すことに対して正統性を付与する理屈が出てきたのだろう。<br />
人々は自由意志に基づいて縛られているのではなく、多くの場合は生まれた時点で様々な制約を受けていて、自由とは所与の制約を上書きする上での建前ではないか。自由とは与えられるのではなく、獲得するものだ。そして自由から何かが生まれるのではなく、内発的な何かと既存の制約とが衝突した時に、自由という枠組みが、殻から抜け出す正統性を付与し、他の価値観と衝突しないところに押さえ込むのだろう。僕が自分が心から自由を欲するような、内発的衝動を得る日はくるのか。そのとき僕は捨てるべきものを捨てられるのか。<br />
人は何より自分の考えや大切にしているものから不自由なのだから。</p>
